ある日、調べもので昔の新聞を見ていたら、ひとつの記事が目にとまった。
『乱売される有害ビデオ、図書 「夜型社会」助長の恐れ』と見出しのつけられた一九九一年の記事で、レンタルビデオ店や古本屋の成人向けコーナーを青少年保護団体が調査したという内容だ。
有害図書などを置かない店に優良店指定をしてみてはと提案があった―と記事は伝えている。
本屋さんに置くか置かないかで議論になる筆頭格といえばこうしたアダルト商品であるが、最近ではその問題が一般書にも及んで、さらに複雑になったように見える。
一例を挙げれば、有名人が逮捕されたときなどに巻き起こる著作物の回収騒ぎである。「販売中止は過剰ではないか」という反対意見も聞こえるようになってきて、議論の真っ最中といったところだ。
また、書店でいわゆる「ヘイト本」を売るかどうかのテーマもよく目にする。
さらに、ネットでアクセスして読む電子書籍においては、サイト側が販売中止とすればお金を払ったユーザーであっても一切読めなくなってしまうという新たな問題も起こっている。
ところで、沖縄の本はこうした「販売中止」とはあまり縁がないように見えるが、過去にさかのぼればこんな事例があるのをご存じだろうか。
一九六〇年十二月、「教師たちの職場を明るくし、教育の活力源として口ずさむ」ことのできる健全な歌集をつくろうと、『愛唱歌集』という本が出版された。
そのころの沖縄において、出版には米軍による許可が必要であったため、発行者は米国民政府へ許可を申請していたが、単に歌集にすぎないこともあり、許可を待たずに集会でそのまま配布を行った。
ところが六一年二月になって、米民政府は歌集の回収命令を出したのである。表向きには手続きの不備がとがめられてのことだが、収録された民族独立歌や労働歌が米軍を刺激したことは明白だった。
沖縄で起こったこの歴史的事実から分かるのは、権力は言葉を封じようとする、良し悪しの判断を他者に任せてはいけないというものだ。
もうひとつ、忘れてはいけない視点だと思うのが、時代の変化に伴う価値観の変容である。つまり、過去の価値観では当たり前だったものが、現代の感覚に照らせば不適当というケースや、逆に、かつては問題ありとされていたものが、現代ではとりたてて問題にならないケースである。あらゆるジャンルに事例はごまんとあるだろう。
当たり前のことだが一度作られた本は変化しない。受け取る人によって、時代によって、評価が異なっていくだけである。人間は過去を振り返りながら、その評価が誤りだったこと、新しい価値観が生まれていることに気付くのだ。
権力は言論を封じようとする。
人は間違うし、価値観は変容する。
ある本を売るべきか否かという難しいテーマを考えるとき、いつも肝に銘じたい視点である。
(2019年4月13日沖縄タイムス3面)
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